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一致すればいいってもんではなかろうに [歴史]

asahi.com(朝日新聞社):奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定 - 文化

古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)が築造されたのは240~260年という研究を国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。畿内説と九州説とが対立している邪馬台国の所在地論争にも一石を投じることになりそうだ。

 「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末~3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)(現在の日本)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」など多くの品々を贈られたとされる。

 全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。強大な政治権力が誕生したことを物語り、時代の画期を示すものと考えられている。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。

 考古学では、少し前までは4世紀の築造と考えるのが主流だった。宮内庁指定の陵墓で本体の調査はできない。周囲で出土した土器や他の古墳で見つかった鏡などを手がかりに研究が進み、3世紀後半と見る研究者が増え、卑弥呼との関連が注目されるようになっていた。

 歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240~260年に絞り込んだ。

 31日にハワイで始まる放射性炭素国際会議と、同日に早稲田大である日本考古学協会の研究発表会で報告される。


年代が一致すればいいって物でも無かろうに。

どうして、マスコミは直ぐ決めつけたがるのでしょうね。確かに、画期的な発表であるもののまだまだ研究は始まったばかりである。卑弥呼の墳墓が箸墓古墳であろうかどうかは、まだまだ未知数だが、面白いことになるだろう。

邪馬台国畿内説、九州説その他たくさんの説が多々あるが、纏向遺跡のことを考えると近畿説の方に傾いてしまう。

でも日本書紀の「神武東征」が一体何を意味するのか、解読しきれていない今何とも言えない。本当に神武は九州から来たのか?それの意味するところは何なのか?ハッキリしないと正直むずむずするのだ。

邪馬台国が大和朝廷の直接の祖型なのか?この二つは断絶したものなのか、それとも継続されたものなのか?

謎は深まるばかりで


2009-05-30 02:56  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
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