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ソ連に消えた貴公子 [歴史]

劇団四季のミュージカル「異国の丘」に影響を受けて
近衛文隆氏について色々読んでいます
五摂家の筆頭である近衛氏の出身、三度も首相を務めた近衛文麿の嫡男
どうやら、ゴルフの相当のめり込み(当時の帰属のステータスだったらしい)
一部では放蕩息子と見なされていたらしい。
世界大戦で疲弊した欧州を避けてアメリカに留学したことは父文麿の見識がたかいことによると思われる
ゴルフも相当な腕であるらしく、劇中では優勝メンバーで勝つ主将と言われているほど。写真を見ても分かるとおり、文麿のような線の細さはない。
しかし、日中戦争が激化したことにより、中退しして父の秘書をすることに・・・。
今この文隆氏が生きていたらと残念に思う
彼自身、政治家を目指していたと思われ、「引揚げ記念館」にて彼の死亡を報道した新聞記事を目にした。そこには、「政治家を目指し」と記されていた
11年という長きにわたり抑留さて続け、決してソ連に屈しなかった彼の精神
 
 
1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開かれていた。
文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なしではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報 担当のスースロフが言った。
    
        プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えるこ
        とですが、ある種の救済でもあったのです。
       
         同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にも
        う一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑
        留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の
        日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦
        に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを
        新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもま
        ちがいはありますまい。
3,4年後には、ソ連はその収容
        所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目に
        なる、と。
       
     フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフ
    は文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった
    事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。
    彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)
    の手口としか考えられないな」と言った。
   
    「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ
    何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を
    打ち切った。
 
夢顔さんによろしく 下―最後の貴公子・近衛文隆の生涯   文春文庫 に 9-4

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夢顔さんによろしく 上―最後の貴公子・近衛文隆の生涯   文春文庫 に 9-3

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2006-12-03 13:11  nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 
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